古代
縄文時代の住居跡やイノシシなどを捕獲するための落とし穴遺構などが英彦山山麓で確認され、庄原遺跡では弥生時代の貯蔵穴から、古代中国との交流を思わせる青銅製のやりがんな鋳型が出土しています。
中元寺地域からは製塩土器や緑釉陶器など、役人層の存在をうかがわせる遺物が数多く出土しています。
中世
保元3(1158)年に平清盛の命令により岩石城が築かれます。複雑な地形から攻め落とすことが困難な城と言われました。
天正15(1587)年、豊臣秀吉による九州平定では、その初戦の舞台となり、元和元(1615)年の一国一城令で廃城となっています。
近世
英彦山では、戦国時代に甚大な被害を受けましたが、江戸時代に入ると、霊仙寺大講堂(現、英彦山神宮奉幣殿)の再建や銅鳥居の建立など、英彦山修験道は再興しました。「彦山三千八百坊」と称され、多くの衆徒で賑わっていたと言われます。
享保14(1729)年には霊元法皇により「彦山」から「英彦山」と改められました。
近代
明治35(1902)年頃から石炭産業が興り、人口が増加しています。
40(1907)年には添田村と中元寺村が合併し、44(1911)年に添田町となり、昭和17(1922)年に彦山村、30(1955)年に津野村と合併して、現在の町域となりました。この頃から、石炭産業に陰りが見え始め、40(1965)年には町内の炭坑も閉山されています。