「豊前風土記逸文」には神功皇后(気長足姫尊 おきながたらしひめのみこと)が鏡山に来られて、新羅征伐で神の加護を得るため鏡を用いて祈り、その鏡を山に捧げたとあり、鏡は石となって現存しています。この山を鏡山といい、縁起を伝える神社が「鏡山大神社」で、祭神は神功皇后と仲哀天皇です。
国道201号線横の道の駅「わぎえの里」周辺は「古代官道」が通り、馬家(うまや)と呼ばれる宿駅があつて、食べ物や宿泊所、馬が置かれました。太宰府から豊前国府に行く「田河道」は、草野津(行橋市)から瀬戸内海を経て都に至る最短距離の道でした。役人の往来、軍隊の移動、租税や産物の都への運搬を行ない、万葉歌人も訪れました。
河内王は689年、太宰帥として大宰府に赴任した皇族で、巡察で香春に来られ、この地で亡くなっています。この王陵は宮内庁指定ですが、鏡山村の人達は大君原にある社を河内王神社として守っています。
鏡ヶ池: 神功皇后は仲哀天皇が亡くなられた後、鏡山で天神地祇にお祈りされて山を下り、鏡ヶ池を水鏡にして、お顔や髪の乱れを直されたと云われています。
香春は景勝の地が多く、官道が通り、宿駅であったため、人や文化の交流が盛んでした。日本最古の歌集である万葉集の中に三群七首の歌が所収されています。
写真左上より
- 「石戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなく」 手持女王(河内王陵側)
- 「王の親魄逢へや豊國の鏡の山を宮と定むる」 手持女王(鏡山伽藍松前)
- 「豊国の鏡の山の石戸立て隠りにけらし待てど来まさず」手持女王(鏡山鏡が池入口付近)
- 「梓弓引き豊國の鏡山見ず久ならば戀しけむかも」 按作村主益人(鏡山大神社参道鳥居前)
- 石上布留の早稲田の穂にはいでず心のうちに戀ふるこの頃 抜気大首(鏡山石鍋口)
- 斯くのみし戀ひし渡ればたまきはる命もわれは惜しけくもなし 抜気大首(呉公民館前)
- 豊国の香春は我家紐の児にいつがり居れば香春は我家 抜気大首(須佐神社前)