糸田町の歴史

古代

宮山遺跡

糸田町で人々の暮らしの営みが始まったのは弥生時代のこと、大正5年(西暦1916年)に松ケ迫遺跡から九州の弥生時代を代表する丹塗りの壺や石戈が出土しています。銅戈も町内の遺跡から多数出土していて、その数は田川地方でも群を抜いています。
とくに昭和15年に出土した宮山遺跡の銅戈は中細形銅戈~広形銅戈で、丹塗りの壺と共に東京国立博物館に所蔵されています。

中世

糸田八幡神社

平安時代の後期(西暦1074年~76年)には、『大乗院寺社雑事記』に宇佐の神宮寺・弥勅寺領の荘園・糸田庄として文献に登場します。建久年間(西暦1190年~96年)には、男山八幡宮を勘請して糸田八幡社が創建されました。

この糸田八幡社には、元弘3年(西暦1333年)豊前の守護であり、糸田城主であった糸田貞義が仏像を奉納した(現在は行方不明)とされ、背面に刻まれた先勝祈願漢詩が御由緒書碑として境内に残されています。

江戸時代

糸田城址江戸時代に入ると、糸田は小倉藩に属しました。初期の町域の人口は約500人で、後期になると約1000人あまりに増加しています。

このころの糸田の様子は、江戸時代後期、黒田藩の学者であった貝原益軒の『豊国紀行』に記されています。
「飯塚よりすぐ香春にゆけば五里あり。嘉麻郡仁保村を経て烏尾たふげあり。筑前豊前の境也。福岡より是まで九里一二町有。是より糸田は二里有。糸田は馬駅にあらず、糸田より香春に二里有」とあり、益軒が旅したころの糸田は、筑前から豊前に至る西国道烏尾峠のふもとにある宿場町でした。
この旧峠には、現在の頂の西側に「従是(これより)西筑前国」という国境石が立つほか、境を守るかのように向かい合って、通称ヘビ神様(地蔵堂)が祀られています。

明治以降

山頭火明治23年(西暦1890年)に糸田町では我が国最大の筑豊炭田の一翼を担った豊国炭鉱が本格的な操業に入りました。
明治34年、八幡製鉄所が操業を開始したこと、また旧財閥が炭鉱開発に参入したことにより、地域の活気は頂点を極めました。

またこの頃、当時糸田町にあった豊国鉱業所病院に勤務していた木村緑平を、漂泊の俳人・種田山頭火がたびたび訪ねています。生涯のうち山頭火が緑平宅を訪れたのは27回、現存するおよそ1268通の書簡のうち、緑平宛のものは実に476通を数え、さらに21冊におよぶ旅日記はすべて緑平のもとに届けました。

2人の親交を記念して、町内には数々の歌碑が建立されています。昭和30年代後半からのエネルギー改革は、地域の経済に大きな転機を迎えさせました。
産業の衰退に伴う人口の減少や経済活動の縮小は、未だ地域の大きな解決すべき問題として残っています。

現在、糸田町では、稲作・麦作・花卉・いちご・小松菜等による農業振興を図り、道の駅いとだを中心とした観光振興を図ることで、地域の活性化に取り組んでいます。


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