大任町の歴史

縄文時代~古墳時代

大任町に人々の痕跡が現れるのは縄文時代後期(今から4000年前)のことである。

稲作文化が伝来した弥生時代には、丘陵上に集落が設けられ、銅鏡や銅剣が出土していることから権力者も出現したようである。

古墳時代になると狐塚1号墳(前方後円墳)や建徳寺2号墳(円墳)をはじめとする古墳や横穴墓が丘陵に数多く造られた。

奈良時代から平安時代

資料が少なくこの時代の様子はよく分からないが、宇佐八幡宮や彦山などの有力な寺社による荘園として支配された。

室町時代~戦国時代

大友氏や大内氏によって支配されるが、戦国時代末期になると両者の勢力は後退し、秋月氏が支配するようになる。

豊臣秀吉の九州征伐によって毛利氏が支配するようになった。

江戸時代

関ヶ原の戦いで町内一帯は細川氏の領地となり、町内北側は伊田手永、南側は添田手永に分けられ、支配されていた。
その後細川氏から小笠原氏に代わり幕末までその支配が続いた。

幕末期には大庄屋南野直七によって大行事井堰や松ノ木土手が築かれ、洪水防止や治水の要として今日もその恩恵を受けている

明治時代以降

明治30年以降大峰坑や島廻坑が次々開坑し、炭坑の町として栄えた。

大正4年には小倉鉄道(後の添田線)も開通し、人口が1万人を超えたこともあった。

昭和40年以降炭坑も閉山し、基幹産業が失われたほか、添田線やバス路線の撤退で人口が減少しつつある。

近年花いっぱい運動や道の駅開業に伴い、賑わいを取り戻しつつある。


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